京都国際マンガミュージアムへGO!! 何このガッカリスポット!!
分かってた‥分かってたけど‥
僕は行ってみたかった京都国際漫画ミュージアム。
中が漫画だらけなので、著作権上写真も撮らせてもらえないからちょっとしかない。
入り口。なぜか閉館前にしまるレストランと併設
内部の火の鳥モニュメント。廊下と近すぎて全体がなかなか見えない。
入館料800円。コスパのいい漫画図書館。
このミュージアムのHPにはこうある。
現代の国内マンガ本を中心に、明治期以降のマンガ関連歴史資料、世界各国の著名マンガ本、雑誌、アニメーション関連資料等を世界最大規模の約30万点(2011年現在)収蔵しています。
そのうち約25万点の資料については、資料保存という見地から閉架式となっています。これらのうち整理・目録化作業が完了した資料については、研究等の目的で資料の閲覧を希望される場合に、研究閲覧登録をすることで研究閲覧室にて閲覧することができます。
実に25万点の漫画が読めるらしい。確かにぎっしりの本棚が多数あり、座るところもたくさんある。しかも、もともとこのミュージアムは学校を改装したものなので、グラウンドであったスペースがあり、天気がいいなら外でも読める。
また、買うと高いアメコミやBD(おもにフランスの漫画を指す)もあったし、このあたりを読むともっともコスパがいい。
もっとしっかりやってください。
国際的に漫画で色々と有名な日本。
その代表をこのミュージアムに任せることは到底できない。まぁなってないからいいんですけど。
不満点あげていきます。
①漫画の配置
一応作者ごとになっていますが、一部が配置してあるだけ。
なぜこの作者にして作品にしたのかわからないし、作者の説明もない。
もはやツタヤなどのレンタルの方がましなレベル。
古いものがあるだけ救いですが。
②常設展示の貧弱さ
HPをみてもらうとわかるのですが、一応漫画年表などの展示があります。
が、その情報量の貧弱さには失望せざるを得ない。ここに来る外国人に見せたくない。
まず、年表。漫画という年間何百というタイトル発表しているメディアで、これを作ること自体歴史的大事業だと思うが、やはり完全に恣意的に情報をまとめたにすぎないものになっている。
次に漫画のお約束云々。コマなどの技法はわかるが、それを破っている例が赤塚不二夫
がほとんどってそりゃないぞ。少女漫画はいつもそれに挑戦してきたし、現代の漫画だってもっとおもしろい表現の仕方がある。もっとまじめにやってくれ。
そして、世界の漫画について。
外人が多いとは思うが、ほとんどの来館者は日本人のはず。なのにこの世界の漫画における情報量の少なさはなんなのか。
アメコミの発行形式と日本のそれとの違いもほとんど述べず、ヨーロッパ漫画と日本漫画との質の違いについても説明がない。
ちなみ前者については日本と違って漫画雑誌がなく、キャラごとのストーリーが単体で発表されているという大きな違いがある。後者はヨーロッパの漫画家はそのほとんどがかなりの実力を持った美大出身の人々で、漫画はどちらかというとその人達による芸術作品とみなされているという根本的な違いがある。
驚くべきことに本当にこのような説明がほとんどない。海外漫画の配置も雑でもはや敬意すらもっていないのではないかとも思ってしまう。
③批評性のなさ
最も大きな問題とも言えるかもしれない。
図書館ならいざしらず、「ミュージアム」と名乗るからにはある程度の批評性、つまりは研究がなければならないと思う。しかしながら、全くそれが見えないのはもうなんというか言葉を失う。
そう、このミュージアムの展示には漫画の批評をしている書籍やそれを紹介する説明、その一切がない。ただただ漫画を並べることに終始し、それを研究する気がないとしか思えない。そして以下のHPのだめ押し。
これらのうち整理・目録化作業が完了した資料については、研究等の目的で資料の閲覧を希望される場合に、研究閲覧登録をすることで研究閲覧室にて閲覧することができます。
資料の複写はできません。また、撮影も禁止となります。
登録させるなら複写させろよ。研究できねぇじゃねぇか。
というわけでこの施設は批評という行為自体を諦めている。確かに漫画というメディアにそんなものはいらないという意見はあるかも知れないし、ひたすらの貯蔵と整理も有意義ではある。それはそれでいいと思うが、おそらく自治体の金も使われているのでもう少し研究してもいいとも思う。
かつて批評家出身の現代最強レベルの映画監督ジャン=リュック・ゴダールは日本映画を称えながらも日本には「映画」は存在しないといった。
彼の中での「映画」は制作と批評という両輪を備えた全体を指している。日本にだって映画の批評はあるがだいぶ遅れて成立したと言わざるを得ない。
漫画に関して言えば、同じことを繰り返しているように思う。
番外京都のメシ
京都のメシはちゃんと調べて行ったらうまかった。
以下行ったところ。
普通の醤油っぽいラーメンなんだけど、なぜか箸が進む奥深いラーメン。
正午にいったら15分くらい並んだ。
老舗立ち飲み屋。気安くておもしろい。メニューが多くて一品の量も丁度いい。
二人くらいでいくと丁度いいかも。
内装が特殊すぎて面白い。レトロ調ではなくマジのレトロ。
ぽんと町と読む。適当に入ったけど、落ち着いてていい店でした。
なにを食べても美味しかった。
感想『銀の三角』SFマガジンに連載された少女漫画の神による超難解SF ★★★★
『銀の三角』文庫1巻 萩尾望都 掲載誌SFマガジン 1980年〜1982年
少女漫画における手塚治虫 萩尾望都という作家
今も現役で書き続けている萩尾望都ですが、少女漫画の第一人者の一人としてこの方をあげることに異論のある人はいないでしょう。というよりいません。
最近のニュースは彼女の代表作『ポーの一族』の続編が書いたとか、2012年に少女漫画家では初となる紫綬褒章を受章したというところでしょうか。ちなみにそのあと、同年代の竹宮惠子も同章をもらっています。
また、一番馴染みがあるかも知れないのが、菅野美穂の若い時に主演していたドラマ『イグアナの娘』でしょうか。自分を醜いイグアナだと認識してしまっている少女が主役の大胆なドラマでしたが、これは萩尾望都の漫画が原作です。
もっと最近であれば、宮藤官九郎脚本のドラマ『11人もいる!』は内容こそなにも関連はありませんが、『11人いる!』という萩尾望都の漫画タイトルをもじっています。
なんだかとても長くなりそうな予感がしてきたので、いつかちゃんと書くとして、簡単にまとめます。
萩尾望都や、前述した竹宮惠子を含むいわゆる「花の24年組」は少女漫画という枠を大きく広げた作家たちでした。その1つの功績としてSF要素の導入ということがあるのですが、今回の作品『銀の三角』は彼女たちが生み出したSF作品の1つの結実といえるでしょう、なんといっても日本で一番のSF雑誌に連載し、SFファンという数あるファンの中でもうるさい人たちに評価を得たのですから。
銀の三角あらすじ
非常にあらすじが難しい作品なので、どれくらい複雑かわかってもらうためのあらすじになると思いますが、まず物語の舞台はどこかの銀河系、星間飛行やクローン技術が当たり前のようにある世界です。登場人物にいきましょう。
マーリー1
中央の役人。中央の権力を維持するために超能力を使い、宇宙の均衡を乱すあらゆる要素を察知することができる。また、無意識的に時空を飛び越えることができる「時空人」
エロキュース
不思議な歌を持つオペラ歌手。暴徒に巻き込まれ死亡する。
マーリー1は彼女の歌に危険を察知していた。
マーリー2
マーリー1の死後12日後に作られたクローン。
蘇生時のミスでエロキュースの記憶注入され、混乱している。
彼も時空人。
マーリー3
2の事故を受けてちゃんと蘇生されたクローン。
彼が物語をちゃんと進める。やっぱり彼も時空人。
ラグトーリン
謎の吟遊詩人。時空を自在に飛び、かつそれをある程度コントロールできるらしい。
異国情緒あふれる格好でとても髪が長くてきれい。ある事情から、マーリーは彼女を追いかけることとなる。
ミューパントー
辺境の王族に突然変異で生まれた、滅んだはずの細長く金色の虹彩を持つ一族。
生まれついての時空人で、殺されても他次元から健康な体が復帰し死なない。狂った王に忌子として嫌われ、殺され続ける。
ラグトーリンいわく彼の存在そのものが宇宙の崩壊をまねきかねないという。
いかがでしょうか。かなりわかりやすく書いたつもりですが、全くSFに馴染みのない人にはきついかも知れません。マーリーはクローン技術で3人おり、彼らが時空をワープしながらエロキュース、ミューパントーに連なる謎を探求していくのが一応の筋ですが、ラグトーリンという最後まではっきりしない謎の存在と、その複雑な時空間の移動、そしてどの時点のマーリーなのかというこれまた複雑な事情のせいで中々筋が掴みにくいです。
壮大なストーリーと神話のような美しい画
上記のようなスケールの大きな物語も楽しいですが、本作の魅力はなんといっても画の美しさでしょうか。流麗というのがぴったりな感じですけども、先のミューパントーの画もそうですが、どのページもかなり気合いが入っていて書き込みが非常に細かい。
だけどもラグトーリンの髪とか、風の効果線とかすごく線のカーブがきれいで、神話のように美しい。写真が汚くて申し訳ないのですが、何枚か貼ります。
ラグトーリンの髪の毛。髪のうねりがとても川のように美しい
実は画面内の線や模様でかなり要素が多いのだが、巧みな構図でうまくまとまっている。
普通の会話でもラグトーリンはかなり服の関係で線が多いが、非常にきれい。
「花の24年組」の1つの特徴として、これ以降も受け継がれている「コマの破壊」がある。本作には少ないが様々な要素をうまく凝縮している。
萩尾望都とノスタルジー
萩尾望都の魅力は現時点で思うのは、やはり非常にノスタルジーな作家だということ。具体的に言うと、失われた時を振り返るときのなんともいえない感情、それは懐かしさという言葉で回収できないような悲しさを作品全体で感じさせてくれる。
そういう特徴でいうと代表作『ポーの一族』はとてもそれがストレートである。永遠に生きる美少年であるエドガーは、過去であった人がその姿を目撃する時、自分の在りし日の思い出に涙する。しかし、そのエドガー自身も自分が幸福だった時代を反芻しながら、苦悩とともに長い時間を生きている。
この作品もそれに漏れなく、ノスタルジックと言えるかもしれない。しかし、事情はちょっと複雑で単純に過去というのではなく、様々な関係で消えてしまった存在、また本来ならあるはずだった時空というおぼろげなものが対象で、そういった意味では一段と難しいノスタルジアなのだが、この作品でしか味わえないものであると思う。
SFとノスタルジー
ところで、SFに対してノスタルジーはとても典型的なものである。SFというのが基本的に未来のことを描くものなのに、実は努めて過去に想いをはせる物語になってしまうのはおもしろい。というか、おもしろいと思いませんか?
宇宙飛行士が初めて宇宙にいって際の有名な言葉は「地球は青かった」、いやいや宇宙のこと話せよっていう。タイムマシーンという未来の機械がすることは、過去を見に行くこと、崩壊した地球で生き残った人がすることは過去の文明を探すこと、クローンを作る時はもちろん若い時の自分、ネルフの総司令ゲンドウが密かに願ったことは在りし日の妻を間接的にでも復活させること、暴走したテツオが最後に見た夢は金田との思い出でした。
失われた時を求めるのはSFの専売特許ではありませんが、SFの1つの典型でもあります。そして、萩尾望都はそれをとても非常に上手く描くことができる作家です。
ちなみに、本作ほど難しいSFに自信がない人は同作家の『スターレッド』から始めてください。いわゆる超能力少女の話で読みやすく、最終的にすごいところ結末になるのでよいです。
誰も話さない本当の『ONE PIECE』補足 画について。余白のなさ。
書ききれなかった話。画について。
前回までの話の中で書ききれなかった、画について書こうと思う。
漫画を語る上で画についてふれないことは、まさに片手落ちと言わざるをえないが、これを完璧にできたら僕はすでに評論家としてメシを食える。
とはいえ不完全ながらも色々書いているうちに、『ONE PIECE』の画について思いついたことがある。
それはよくいわれる余白のなさについてだ。『ONE PIECE』の画は他の作品と比べて明らかに書き込みが多い、そればかりかセリフも多い。ジャンプをパラパラとめくっても『ONE PIECE』がどこに載ってるか即座にわかるくらいページあたりの情報量が凄まじい。とにかく背景でも吹き出しでも、効果線でも余白を埋めまくっていると言える。
この余白を埋めるというワードは、おそらく大秘宝ワンピースの正体である歴史の「空白」を埋めるというテーマとダブってくる。
尾田栄一郎という作家を余白を嫌う作家とするならば、画においても、物語においてもそれを徹底していると言えるのではないだろうか。そう考えれば、登場人物たちの過去ばかりか敗北した後の話を洗いざらい紹介することも、この「余白」を埋めていく作業と解釈することができる。*1
*1:この余白のなさについては、よく調べもしない予想でいうけれども、いわゆるオタクの人に『ワンピース』がイマイチうけない理由とも言える。読み手に想像の余地を与えてくれないということで、これはともすると二次創作にしづらさにつながっている。もちろん二次創作といっても様々な形があるし、本当にオタクと言われる人が本作を嫌っている確証もなく思いつきで言っているだけである。
誰も話さない本当の『ONE PIECE』第5回『ONE PIECE』のこれから。
『ONE PIECE』のこれから。
では、『ONE PIECE』の話題に立ち返り、この作品のこれからについて述べたい。
すでに『ONE PIECE』は80巻を超えたが、その終わりはまだまだ見えていないといっていい。そしてこのように長く続いたせいだろうか、本作の最近の話は個人的には不満なところが増えてきた。
まず、第1回にあげた一味の仲間ブルックの件。彼の冒険の動機は死んだ仲間の思いでもあったラブーンとの再会である。一応、この死んだ仲間からの「遺産」を引き継いでいるという見方もできるが、ここでは先人や先輩からといった「縦のつながり」はない。もしかすると、彼の生きていた時の*1説明は乏しいので語られるかもしれないが、彼が仲間になる過程に弱さを感じた人も多かったのではないだろうか。ここではどちらかというと仲間たちという「横のつながり」がむしろ主軸になってしまってる感じがある。
さらに白ひげとエースの死についても不満がある。
気になるのは白ひげの意思は誰が継ぐのかという問題である。つまりはエースを死なせるべきではなかった思う。
だが、これには様々な反論があるだろう。まず白ひげの「遺産」はルフィに引き継がれた説。この意見は納得しがたい。まず白ひげとルフィとのつながりはほとんどないし、ルフィは彼の死よりもむしろエースの死の方に頓着している。
次にまだ出てないが、存命の腹心不死鳥のマルコが後継者だとする説。
こういうことであればのちの展開に期待したいが、彼が作品内でエース以上の存在感を持てるとは思わない。
最後に、白ひげの本名エドワード・ニューゲートよろしく新時代の扉を開いたことが「遺産」だという説。承服できない。彼の死によって物語が大きく動いたという感じは、冷静にみればない。海軍のトップが代わり四皇が一人減ったとしても、世界政府が世界を支配し、四皇が海賊のトップに君臨しているという構造は変わらない。よって特に作品に大きな意味を加えたとは思えない。
そしてこの二人の死のエピソードでクロースアップされたキーワード、それは「家族」である。
白ひげ死ぬ間際の回想
一応白ひげが仲間たちを息子と呼ぶことから、「縦のつながり」と見なすこともできるかも知れないが、それならばなおのことエースを死なせるべきではなかった。このエピソードは家族といいながらも、むしろ仲間愛をつまりは「横のつながり」を強調してしまっている。エースの最後の言葉「愛してくれてありがとう」も仲間にあてた言葉という意味合いが強い。
本作『ワンピース』についての最近の危惧は、作者自身が巷の仲間大事言説に徐々に引っ張られているんじゃないかということである。これまで述べてきたように本作において重要なのは「縦のつながり」であって「横のつながり」ではない。
自分の意見から物語が逸れているから不満という偏狭な心からではなく、エピソードの強度は落ちてきているのではないかという不安である。端的に言うのであれば、単純にここで挙げたエピソードが「ヒルルクの桜」より好きだと断言できる人はなかなかいないのではないだろうかということだ。
改めて、本作の肝は「縦のつながり」であると断言しておきたい。
最後に
ここまで『ワンピース』における「遺産」を引き継ぐというテーマ、そしてそこから引き出される「縦のつながり」について述べた。さらにはその魅力と社会との接点についても論じ、他のヒット作におけるこのテーマの向き合い方も見てきた。
この文章の最終部が批判で終わってはいるが、本作が現時点で優れた作品であるという評価は揺らがない。優れた作り手は誰もがおぼろげに感じることを、意識的にせよ無意識にせよ、魅力的な形で受け手に再提示することができる。*2ここではたまたま日本の歴史と結びつけたが、「遺産」を受け継ぐという話題はどこにでも存在するごくありふれた話であり、本作ではそれがとても感動的に描かれ、それが絶大な評価を得ていることは間違いではない。
繰り替えしになるが、尾田栄一郎という漫画家が優れた作家であり、その意味では現在正当な評価得ていると言える。しかしながら、作品に対しての理解が十分ではないことはとても残念だ。そして、長く続けてきたこの文章がその理解の一助になればと思う。
誰も話さない本当の『ONE PIECE』第4回「遺産」というテーマ。近年の大ヒット漫画。
「遺産」というテーマ。近年の大ヒット漫画。
ここまで『ONE PIECE』における「遺産」を考察し、さらにこのテーマが日本社会も共通して持つ重大なものであることもわかった。
そしてここで本作以外の作品を見ていきたい。興味深いことに近年の他の大ヒット漫画も、もちろんすべてではないが、共通してこの「遺産」のテーマを持っているように思える。
そしてそのテーマに対しての向き合い方は様々である。ここでは、ジャンプで長年二枚看板を張ってきた①『NARUTO』、サンデーでは異例の大ヒットを飛ばした②『鋼の錬金術士』、そしてこのテーマに関しても最も挑戦的な大先輩③『ジョジョ』シリーズについて見ていきたい。なおネタバレを含むので読んでいない人はご注意を。
①『NARUTO』先人との戦い。
本作は『ONE PIECE』が始まった2年後1999年に開始され、以後15年に渡ってジャンプの二枚看板として大ヒットを飛ばしてきた。そしてこの『NARUTO』も「遺産」を受け継ぐというテーマに 意識的である。
まず、主人公ナルトの夢は忍者の里の長である火影という名を受け継ぐことである。そして彼の中には、前時代における戦争の負の遺産である「九尾」が封印されている。これだけで「遺産」というテーマが本作の主軸になっているかわかるというものである。
ここで『ONE PIECE』のようにまた個々のエピソードに触れるべきだが、冗長なので割愛する。
では 『NARUTO』はこのテーマをどう描いたのだろうか。
端的にいうと、それは「先人との戦い」という形で描かれていると言えるだろう。主人公ナルトは自身に封印された大きな力「九尾」のせいで、それを利用しようとする様々な勢力に攻撃を受けることになる。その敵を打ち破る中で、彼は自分に連なる里の歴史の暗部、つまり先人たちの過ちに気づいていく。戦争の中で里を守るために多くの犠牲を強いてきた歴史、それを背負い恨みを持った人々が自分を利用しようと襲いかかってきていることに気づくのである。
そして、里のトップの火影を目指す彼はそれらに真っ向から立ち向かっていくのであるが、それは本当に歴史上の人物とのバトルという形で描かれる。
これは初期では伝説の三忍の一人「大蛇丸」であったり、戦争の犠牲者「長門」や「オビト」、里の成立に関わる歴史上の人物「うちはマダラ」、果ては自分の使う忍術をもたらした原因たる「かぐや」など、実際に過去の偉人たちと戦うのである。
この過去との戦いが最初にはっきり登場したのは、中忍試験編の最終部での三代目火影VS大蛇丸においてである。大蛇丸は戦いの中で禁術「穢土転生」を使い、初代火影と二代目火影を無理やり蘇らせて、三代目と戦わせる。この時三代目には様々な思いが去来するのだが、このような「穢土転生」での戦いは作品最終部でも大規模に行われる。過去主人公が倒した敵から、名前も出てこなかった各里の先代リーダーたち、死んだ家族など、未曾有の世代間大戦争である。
この戦いの中で、登場人物たちは過去の過ちやそれによる恨みといった負の「遺産」をどう清算し、次世代へとつなげていくか自問していくこととなる。
そして最後は負の「遺産」を一身に受けたサスケと、それを清算し正の「遺産」としたナルトが戦い、腕の欠損という犠牲を払ってこの歴史戦争に幕が下りたのは感動的とも言える作品全体の縮図であったように思う。
かけあしになったが、以上のようにNARUTOという作品においては、「遺産」を受け継ぐというテーマが先人との文字通り戦いという形で描かれていると言えるだろう。
時代を代表するとも言える二大少年漫画が、同じテーマを違ったアプローチで捉えていることは本当に興味深い。
②『鋼の錬金術士』 偽の歴史を捨てる。
『月刊少年ガンガン』で掲載された『鋼の錬金術士』も時をほぼ同じくしてヒットした作品である。そして、この漫画も錬金術という「遺産」をめぐる物語になっている。
あらすじとしては、死んだ母を生き返らせるという禁じられた練成をしようとした二人の兄弟がそれに失敗し、兄は片方の腕と足を、弟は体そのものを失ってしまい、それを取り戻す方法を探す旅に出るという話である。また、主人公たちが住むアメストリスという国以外にも、イスラム諸国を想起させるイシュバール、中国テイストな国シンなど現実の歴史を強く思い起こさせるものとなっている。
二人はこの旅の中で、錬金術がどうやら自分達が住む国の根幹に関わるものだということに気づいていく。ネタバレをおそれずに言えば、黒幕ホムンクルスが巨大な錬金術の発動のために国の歴史を影で操っていたのである。そして、その副産物として自分たちの錬金術があったというのが真相である。
このことは作中の人々が今まで知らないうちに操られ、偽の歴史つまり偽の「遺産」を引き継いできたと考えることができる。そして、物語の最後に主人公エドワードは偽の「遺産」の象徴たる錬金術を自ら捨て去ることを選ぶ。こうして彼はみずから歴史を作っていくことができるのである。
③『ジョジョ』シリーズ さらにその先のテーマ。
『ONE PIECE』が始まる約10年前から、主人公を変えつつ続くこの一大サーガは現在も日本の漫画の最前線を走り続けている。この漫画においては「遺産」という言い方よりも「血統」や「黄金の精神」という方が馴染み深いだろうか。
ジョジョについてはいつか改めて書きたいと思うので、ここでは要点を絞っていきたい。
ジョジョの物語はディオとジョースター一族の果てしなく続く戦いの歴史である。ジョースターの一族はある宿命を持っている。それは一部の主人公ジョナサンが戦った宿敵ディオに連なる悪と戦うことである。彼らは時には意識的に、時には運命的な偶然でこの運命を引き受けていく。
「遺産」を引き継ぐという軸で見ると自身の血統につながる宿命を単純に受け継いでいくだけの話に見えるが、ジョジョという途方もない名作はもちろんそれに留まらない。
キーワードは二つある「繰り返し」と「血統の混乱」である。
まず、「繰り返し」について。
歴史とは繰り返しという話がある。これを真に受けるならば、ジョジョの物語はまさにその繰り返えされる歴史ということができる。しかしもしそうなら、自分の歴史つまり運命は決めれているのではなかろうか。そしてそれを知り、覚悟することは幸せなことなのではないか。そう、歴史言い換えれば「遺産」を受け継ぐということを「繰り返し」たらどうなるかというを意欲的に描いたのが6部の物語である。
はっきり言って『ONE PIECE』を含むここまで紹介した他の作品の一歩先をいく話であり、「遺産」という鍵だけでは語り尽くせない話題なので、ここで筆を置いて逃げておこうと思う。
しかしながら、このような物語でもってひとまず『ジョジョの奇妙な冒険』という作品に一区切りをつける感覚には驚かされる。同じ物語を繰り返すということに真っ向から挑んだのである。
そして、この「繰り返し」という話題はその次の『スティールボールラン』にも引き継がれる。この部に登場する黄金の回転はまさしく「繰り返し」をそのまま武器としたものといえる。無限の回転エネルギーとは、そのまま無限に繰り返されるジョースター家が悪に打ち勝っていく歴史のエネルギーである。これによりこれまた無限にある大統領の平行世界に打ち勝つことができるのである。
ともかくもこの「遺産」の相続を何度も繰り返している作者荒木飛呂彦は、ひとつ先のステージいることは間違いない。
では次に「血統の混乱」について考えたい。
これは評論誌『ユリイカ』でジョジョの特集号で誰か書いてたことですが、ジョジョは血統の物語と言いながらもこれが密かに混乱してきている。
まず3部において ディオの体はジョナサン・ジョースターであり、間接的にディオは混血した存在になっている。そしてのその息子は5部で主人公になっている。この主人公ジョルノはすでにどっち血統に属しているのかよく考えるとわからない。「遺産」のテーマに立ち返れば、誰がどの「遺産」を受け取るべきかわからなくなるという深刻な事態である。
そしてこのテーマは現在連載中の『ジョジョリオン』において主要に取り扱われている。主人公定助は自分が何者か分からない。読み進めるうちにどうやらなんらかの力によって吉良と空条丈世文なる人物が混ざった人間だということがわかってくる。これはまさに「血統の混乱」と言える。最近のジョジョでは自分がどの血統に属すべき存在なのかわからず、それを探し求める姿を描いている。
したがってどの運命、言い換えるなら誰の「遺産」を引き継ぐべきなのかわからないというこれまたこれまでの作品群の先をいくテーマといえるだろう。
この2点からもわかるように『ジョジョ』という長く続く作品が他のヒット作をも凌ぎ、最もラディカルな作品であることが分かる。
今回は『ONE PIECE』以外の作品における「遺産」のテーマを取り上げた。
もちろんすべての作品がすべての作品がこのテーマだけで語りつくせるものではないし、最近の作品が突出してこれを取り扱っているかと言えばそうではないと思う。だが、特に『NARUTO』のおいてだが、すべて少年漫画ではあるものの一見して全然違うこれらの作品が同じ問題に向き合っているのは共時性を感じないでもない。
次回は一応の最後、ワンピースのこれからを作者でもないのに考えたい。
作品に対する現時点での不満をまとめ、全体の総括をしていく。
誰も話さない本当の『ONE PIECE』第3回 歴史への着目 社会との共鳴
『ONE PIECE』のすごいところ。
前回までのお話で本作における「遺産」の重要性に気がついてもらえたかと思います。このようなしっかりとした構造を作り上げていること自体、並の作品ではないことがわかりますが、『ONE PIECE』のすごいところはこれに留まりません。
ここからはちょっと作品外の話をします。なので口調も変わりました
なんでもそうですが、こと芸術分野の評論において、社会との関係云々とか言い出すと途端にうさんくさくなりがちです。「〜で学ぶ仕事術」とかいうありがちなタイトルの自己啓発本なんかはこれの最たるものだし、映画の評論でいわゆるその国の「歴史」とか「昨今の社会事情」とかすぐ語っちゃうのも同様にうさんくさいです。つまりはそれお前が勝手に連想しただけだろという、説得力のない話になっていることが多いということで、ひどい時にはそういう風に語れないから、この作品はクソだとなってしまうことすらある。
何が言いたいかというと、これまでの話のようなあらすじや個々のエピソード、描写のようないわゆる「作品内」のことに比べて、現実社会や歴史といった「作品外」のことと結びつけて話すのは相当に難しいということです。ともすると、それはそういう風にうまく作品を作ることがそもそも難しいということでもあります。
しかしながら、「うさんくさい」評論が溢れていることからもこれは一応社会的に要請されていることなのでしょう。
そして、『ONE PIECE』はそのような難事をそれとなくさらっとやってのけています。
歴史への着目と社会との共鳴。
『ONE PIECE』のすごいところは社会とこの「遺産」のテーマを巧妙にリンクさせているところです。それもおそらく意識的に。
作者尾田栄一郎については、僕は熱心な読者ではないのでよく知りませんが(Q&Aもろくすっぽ読んでない)歴史について非常に意識的ということは分かります。
空島はそのままアメリカにおけるネイティブアメリカンの問題をベースにしているし、魚人島は階級社会と差別の問題を想起させる。また、ちょっと強引ですがウォーターセブンは、貿易の中継点として躍進した小さな国シンガポールの成り立ちを思わせるところがあり、世界政府と革命軍という対立関係も歴史では馴染み深い。加えて、作中の人物造形を実在の人物をモデルにしていることもあります。
そこで作中における歴史を整理してみます。まず、人々の知らない古代文明がありそれについての情報はすべて「空白」となっている。そしてその空白の後に世界政府が突如として樹立、そして現代では彼らの管理下で世界は成り立っているとこうなっております。
こう整理すると、やはりこの歴史構造もモデルがあること分かります。何をモデルにしているか。それは日本の歴史です。
これは世界政府とGHQをイコールで結ぶとわかりやすいです。
日本敗戦の後GHQは憲法などあらゆるものを日本に与え、そして日本は国として再出発しました。そしてそれと同時に敗戦前の「伝統的」な価値観からは急速に遠ざかって行きました。
いわば戦前と戦後を分ける「空白」ができたのです。
『ONE PIECE』の世界では古代文明のことはほとんど誰も知りません。現実ではさすがにそういうことにはなっていませんが、戦前の価値観をほとんどの人は縁遠いものと感じているはずです。逆に無理にでも結び付けようとする人もいますが、これは同じ問題を前にした際の違った反応というだけで、大差ありません。
「空白」ということばでわかりづらいなら「断絶」と言ってもいいですが、本ブログは漫画などについて評するので、歴史認識についてこれ以上は深入りしません。しかし、日本の文化における賞賛や歴史ブーム、首相のスローガンであった「日本を取り戻す」というワード、先の参院戦でのポイントだった憲法など、先人からの「遺産」をめぐる問題はいつもこの国の主要なテーマです。いうなれば、我々も先人からの「遺産」を探している人々と言えますが、うさんくさくなってきましたね。
とはいえ、ワンピースのすごいところのひとつはこの大きなテーマを作品内におおっぴろではない形で盛り込み、優れた社会性を獲得しているところです。こう考えるとこれだけの大ヒットになるのもわかるし、ますますその重要性が高まってきます。読んでない人は頑張って読みましょう。
社会における「遺産」の重要性もわかったところで
次回は、この「遺産」についてのテーマが『ONE PIECE』に劣らない他のヒット作にも隠されているという衝撃の事実を暴露します。
誰も話さない本当の『ONE PIECE』第2回「縦のつながり」と大秘宝の正体
前回の考察で分かった「遺産」を受け継ぐというテーマをさらに掘り下げていきたい。そして後述するが、これによりひとつなぎの大秘宝ワンピースの正体も、確たる根拠を持って予想することができる。
「横のつながり」ではなく「縦のつながり」
「遺産」を受け継ぐというテーマが物語のあらすじでも、個々のエピソードでも繰り返し描かれていることがわかった。
これによってもう一つ大事なことがわかってくる。
それは死んでしまった人や偉人もしくは先輩が、子供や後輩に「遺産」を残すというこの構造、言い換えるなら「縦のつながり」が本作にとって重要だということだ。
そう、世間一般に流布されるワンピースの面白いところは「仲間」を大切にするという、いうなれば「横のつながり」という言説は間違いではないが少しずれている。漫画『ONEPIECE』においてもっとも感動的で大事なのは、「遺産」を受け取るという「縦のつながり」という関係なのである。
ひとつなぎの大秘宝ワンピースとは何か。
この「縦のつながり」の重要性に気がつくと、ひとつなぎの大秘宝ワンピースの正体についても確信を持って答えることができる。
それを明らかにする前に、この大秘宝とポーネグリフ(作中での別名歴史の本文)との関係をおさらいしておきたい。
ポーネグリフは前回少し触れたが、麦わら一味であるロビンだけが読める「空白の歴史」を示した文書である。それは劣化しないし破壊できない特殊な石に彫られ、世界各地に散らばっているとされる。
しかしながら、ロビンはこれが読めるために、世界政府に常に狙われているのだが、この古代文書は古代文明の兵器の手がかりになると同時に、「空白の歴史」は世界政府とってとても不都合なものであるらしいからだ。
ロビンの過去よりオハラの研究者クローバー博士のセリフ
作中における歴史には注目しなくてはならない、言わずもがな歴史とは先人の残した「遺産」であるからである。それを考えてみれば「空白の歴史」は物語の根幹に関わる大きな問題であることが分かる。
また、ポーネグリフに関しては空島編でこういう描写もあった。
ゴール・D・ロジャーはポーネグリフを操れるらしいということだ。
海賊王ゴール・D・ロジャーは、最近では主人公ルフィとかなり密接に「縦に」関係してきている。ミドルネーム?のDという文字は、ルフィを含む主要な人物に与えられているものであり、彼らは「Dの一族」と呼ばれることもある。
主人公に関わることからもこれは作中の最も重要な伏線と1つであることは言うまでもないが、「Dの一族」にはもう一つ情報がある。彼らは「神の天敵」とも呼ばれ、ここでいう「神」とは事実上世界を支配する天竜人を指すということが、七武海ドフラミンゴの発言で明らかになった。
少し整理して、以上の情報からわかることは以下のようになる。
・ポーネグリフは、歴史の空白を埋める存在である。
・歴史は過去の人々の「遺産」そのものであり、重要である。
・「空白の歴史」は世界政府にとって、不都合なものであるらしい。
・海賊王とポーネグリフには密接に関係がある。
・海賊王やルフィを含む「Dの一族」は世界政府を始めとする天竜人と、伝統的に対立している。これはポーネグリフと共通する特徴である。
以上の情報とこれまで考えてきた「縦のつながり」を合わせて考えると、
ひとつなぎの大秘宝ワンピースとは、天竜人や世界政府がひた隠しにした「空白の歴史」であり、古代文明と現代人を「縦にひとつなぎ」にする海賊王の「遺産」だと予想することができる。
なぜ「縦に」ひとつなぎ というところが肝だが、これでなぜ「ひとつなぎの」大秘宝なのかというところもはっきり説明することができる。
物語の最大の謎にカタがついたところで、次回は作品内容から少し離れて、『ONE PIECE』と社会との共通点について聞いてもらいたい。自己啓発本がこういうことをいつもやっているが、毎回全く的を得ていないので、ちゃんと考える必要がある。